西部邁とその時代①



西部邁とその時代①

 今年(2018年)1月21日、多摩川で亡くなった西部邁先生の著作をもとに、生い立ちから保守主義者になるまでを振り返ります。

1 生い立ち

 西部邁は、1939(昭和14)年3月15日、北海道山越郡長万部村で生まれた。四歳から北海道札幌郡白石村字厚別に移り、高校の途中まで同村で育っている。もう少し正確に正確にいえば、小学5年生時に帯広市に転居したが、6年生の冬には厚別に戻っている。

 厚別の西部家は、現在新札幌駅の近くにある真宗大谷派智徳寺敷地内の、国道沿い建っていた。同寺の住職婦人が、父の従姉にあたる縁で、寺の土地を借りていた、とのことである。

 白石村字厚別は、1950(昭和25)年に白石村が札幌市と合併し、札幌市厚別町となった後、現在は札幌市厚別区となっている。新札幌駅周辺は、戦後札幌の副都心としての開発がなされ、商業施設や集合住宅が建ちならぶ地域になっているが、当時は農村地帯であり、西部の自宅前は果樹園が広がっていた。智徳寺の隣には、真宗高田派の大行寺があり、西部によれば、その寺の墓地はそのまま深い原生林につながっており、現在新札幌駅がある場所は、当時は墓地であった、とのことである。

 西部が通った信濃小学校は、厚別区厚別中央の、厚別駅に近い場所にある。西部家から厚別駅までは徒歩15分程度であるから、現在の新札幌駅から厚別駅一帯のエリアが、西部少年の遊び場であったと思われる。
 
 なお、西部家は、西部の高校生時に、札幌市の中心部に近い、札幌市中央区南二十条西11丁目に転居している。西部の著作には厚別に住んでいた時期を16歳までとしたものや、高校3年から札幌に移ったという記述があり、正確な時期は詳らかではないが、16歳から17歳ころまでは、白石村字厚別という小さな村で成長した。

2 父の失業
 
 西部の父は、北海道夕張郡長沼村(現在は長沼町)の浄土真宗の寺で育った。名は仏教徒らしく「深諦」。
 西部の母は、同村の農家の生まれである。

 「サンチョ・キホーテの旅」(新潮社、2009)によれば、西部の両親は、長沼村の同級生で、結婚すると、すぐに満州に移住するため出発したが、二・二六事件により交通が遮断され、秋田県で足止めされる。そこで気が変わって北海道に戻り、深諦は、姉の夫の紹介で長万部町で農協団体の職員として採用された、とのことである。

 深諦の勤務先は、札幌や帯広・網走・根室にも拠点があるので、長万部の地域農協の所属ではなく、おそらくホクレン(農業組合連合会)のような全道的な組織に採用されたのだろう。西部家は、邁四歳時に厚別に移住して、深諦は札幌に通勤するようになる。

 その父は、上司と衝突し、帯広に左遷され、勤めを一度辞めている。

 私が中学生となって札幌に汽車通学を始めた頃、父はその友人と肥料会社を起こし、またたくまに失敗した。収入ゼロの期間が二年か三年続いたのであろうか、父はやむなく元の職場へと(元の仲間の)温情で出戻り、極北の地・網走へと飛ばされて行った(「サンチョキホーテの旅」)

 西部の父が肥料会社の起業に失敗したのは、西部が多感な中学生のころであることから、西部の著作には貧困家庭のエピソードが少なくない。

 兄と私は、しばしば、弁当を持たずに通学していた。(中略)在校生千五百人という大きな中学校であったが、昼休みの弁当時間、屋内運動場に出てくるのが兄と私だけということも何度かあった。私がこちらの入口あたりからバスケットボールを蹴ると、向こうの入口あたりから兄がそれを蹴り返す。お互いに一言も発せずに、三十分後、それぞれ教室に戻るわけだ。(「寓喩としての人生」徳間書店、1998)

 子どものころに、貧しく腹を空かせていたエピソードは、西部の文章に頻繁にあらわれる。
 もっとも、父が復職して数年後には、四人の妹がいる状況下、ひとつ年上の兄は一浪して北大に、西部も一浪して大学に進学している。大学進学率が10%程度の時代、西部家は裕福とまでは言えなくとも、貧困状態は一時的なものであったと思われる。

3 東大入学とブント加入

 西部は、札幌市中央区の柏中中学校を経て、札幌南高校を卒業する。高校卒業時の学力は北大がよいところであったが、すでに一浪して北大を目指していた兄と同学年になることをきらい、一浪し東京大学を受験する。

 受験のために夜汽車で東京に向かった。青森をだいぶ過ぎたあたりであったろうか、がらがらの客車に中卒者たちが四人、隣の席にいて、「高校にいったって何の役にも立たないんだ。しっかりはたらいてカネを稼ぐのが大事なんだ」としゃべり合っていた。すでに始まっていた集団就職の一団だったのであろう。互いに励まし合うような、しかし不安を丸出しにした、その幼い会話を聞いていて、私はある種の感動を覚えていた(「寓喩としての人生」)

 1958年(昭和33年)、東京大学に合格した西部は、入学後まもなく左翼活動に身を投じる。

 まず、その六月に日本共産党への入党を大学キャンパスの路上で誘われ、三十秒も考えずに、それに応じた。その半年後に、共産党を除名され、つづいて共産主義者同盟、略してブントなる新左翼のはしりの組織に加わった(「寓喩としての人生」)

 当時を生きていない人間には、岸信介総理の政権下の安保反対デモで、全学連が先陣をきり国会に乱入するなどの狼藉をはたらいた、という程度の知識しかないのが、一般的であろう。ブントが何かを理解するのがむずかしい。

 全学連とは、「全日本学生自治会総連合」のことで、学生自治会の全国組織である。安保の頃は主流派、反主流派に分かれていた。反主流派(少数派)のほうが、日本共産党系である。二段階革命でなく、直接に日本帝国主義と対決して、社会主義革命をめざそう。そういう主張が、六全協以来の方針に飽きたらない学生党員の間で、支持を集めた。そして、一九五八年五月の全学連大会では、執行部を独占してしまう。党中央の言うことをきかなくなったので、みんな除名されてしまった。
 それならと、その年の十二月に彼らの作ったのが、「共産主義者同盟」(略して共産同)である。その昔、マルクスがこしらえた革命組織の名前にあやかったものだ。同盟のことを、ドイツ語で「ブント」というので、安保ブントともいう。最初は小さかったが、たちまち大きな全国組織にふくれあがった。大衆組織の全学連を、上部団体の共産同が指導するという関係である(「冒険としての社会科学」橋爪大三郎) <

 六全協というのは、1955(昭和30)年に開かれた日本共産党の第六回全国協議会のことで、軍事路線から平和革命路線を打ち出したものであるが、それでは飽き足らず、より過激な活動をしたいという学生がたくさんいた、ということである。

 全学連主流派の組織に所属し、学生運動に参加した西部は、すぐに指導的ポジションに就くことになる。
 
4 アジテーター

 西部は扇動的な演説が上手く、

 全学連の書記長をやっていたS氏は私を東京都学連の副委員長にした。もちろん、本人の承諾なしにである(「寓喩としての人生」)

 S氏とは、その後中核派の議長になる清水丈夫(東京大学経済学部)である。

 つづいて東大教養学部の自治会委員長・副委員長の選挙が始まった。活動家の勢力でいえば共産党が七割、第四インターが二割そして我らのブントが一割といって過言ではないような、情けない状態になっていた。しかも立候補者は自分のクラスで自治委員に選出されなければならないのだが、我らの立候補予定者は、一番手も二番手も三番手も、その資格を得ることができない(「寓喩としての人生」)

 共産党が圧倒的に優勢な情勢下、第一候補の加藤尚武や第二候補の河宮信郎は、クラスの自治委員になることができなかった。西部のクラスには共産党系の学生がおらず、「共産党と喧嘩をやらしてくれ」とのスピーチをして、自治委員に選出される。そこで、西部が、自治会委員長に立候補し、選挙では全学連書記局の仲間らと共謀して投票用紙を偽造し、学校の裏手の旅館に持ちこみすりかえる不正をして、委員長になった。こうして、西部は、東大入学の一年半後には、東大の自治会委員長、都学連副委員長、全学連中央執行委員を兼ねる状態になる。

 私が贋の委員長であることを、証拠はないものの確信していた共産党は、当たり前のことだが、大いに怒っていた(「寓喩としての人生」)

 15名の常任委員はすべて共産党系であり、委員長は自治会室にも入れない状態であったという。

 そういえば、「委員長は我らの自治会費で暮らしている」というビラが撒かれたこともあった。代議員大会で、無党派の学生が「それは本当か」と詰問するので、私は「本当です。でも、さほどのものは食べておりません」と答えて、場内を笑わせるのに成功した。この種のちょっとした言葉の綱渡りに私は少しばかり秀でていたのかもしれない(「寓喩としての人生」)

 この機転のエピソードと、不正選挙による偽りの委員長の話は、西部の著作に頻繁に登場するものである。

5 2度の逮捕

 1960(昭和35)年1月16日、日米安全保障条約の改定に調印に向かう岸信介首相の渡米を阻止するため、羽田空港に1000人近くが座り込み、全学連委員長の唐牛健太郎をはじめ、大量の逮捕者が出た。
 西部も、その一人である。
 神田警察署に3週間留置され、起訴されて東京拘置所の独房に入る。

 起訴されて拘置所まできたときは、入口で四つん這いにさせられ、検査用の棒を尻の穴に突っ込まれた。共同浴場などから病気が伝染するのを防ぐためというのが名目であろうが、犯罪者に屈辱感を味わわせるのがその真の狙いであろうこともすぐわかった。(「寓喩としての人生」)

この件では、一ヶ月留置され、二月末ころに保釈されている。

 全学連は、4月26日、唐牛らが国会前で装甲車を乗り越えて機動隊に突入する事件を起こすが、これには西部は参加していない。駒場の党派抗争に支障がでるので(自治会)委員長の任期いっぱいまで捕まらないようにしろ、ということになり、池袋の映画館で、女子大生とフランソワ・トリュフォー監督の「大人は判ってくれない」を観ていた、とのことである。

その後、西部は、6月3日の首相官邸への突入事件、6月15日の国会乱入事件を一部指揮し、7月に再び逮捕される。6月15日の事件は、東大生の樺美智子さんが、国会の南通用門で圧死したことで有名な事件である。西部の長女は、授業中に、教師から「この中に樺美智子さんを殺した奴の子供がいる」、と言われたことがあるという。

6 左翼からの離脱

 逮捕された西部は、再び、巣鴨の東京拘置所に送られる。

 私が政治犯として東京巣鴨の拘置所に半年ばかりいたとき、父が面会にやってきた(中略)、青い囚人服の自分の姿を父にみられるのが嫌で、「こんな所にくるものじゃないよ」とか「東京は暑くて大変でしょう」とかいって、その場の気まずさをごまかしていた(「サンチョキホーテの旅」)

 この時は、7月初旬から11月末まで約5か月間収監されて、保釈される。

 我が家にも立ち寄ったが、父親は「お前には敷居をまたがせない」といった。
 仕方なく深夜に石山通りという名の産業道路を歩きながら、高校時代の級友のところにでも泊めてもらおうと算段していたら、後ろから母親が転びつまろぴつ駆け寄ってきて、私にしがみつく。まるで新国劇だなあなどと思いつつも、母の愛情を体感した。後年、自分が親になってから、親の気持にも冷たい部分があると知った。で、「あのときの母親の本心は、この子さえいなければ、ということだったのかもしれない」と想像し、当時の自分の若さに苦笑いしたものである。(「寓喩としての人生」)

 保釈時にはブントは勢いを失い、組織は崩壊寸前であった。
 
 西部は、22歳の誕生日である1961(昭和36年)3月15日、南青山で開かれた、ブントの会議に出席する。
 清水丈夫らが、革共同(後に分派して中核派や革マル派を生み出す組織)への合流を切りだすが、西部は即座に「まっぴらごめん」(「私の履歴書人生越境ゲーム」日本経済新聞社・青木昌彦)と断り、左翼運動から撤退した。

 以後、西部は、1960(昭和35)年1月16日の羽田空港事件、同年6月3日の首相官邸突入事件、同年6月15日の国会乱入事件で起訴され、3つの刑事裁判の被告人として20代を過ごすことになる。

 → 続く

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