西部邁とその時代③



12 東大助教授/ソシオ・エコノミックス

 近代経済学の習得に約10年を費やし、横浜国大に奉職した西部であるが、既に専門分野への興味をなくしつつあった。

 まさにその頃、彼は近代経済学というもの全般にたいして本格的な関心を失いつつあった。人間の経済活動にも「文化における価値」、「社会における慣習」、「政治における権力」が強かれ弱かれ関与しているはずだ。それらをバッサリ切り捨てるのは、一体全体、いかなる了見にもとづいてのことなのかと青年は首をかしげ、その首の傾斜が大きくなっていくばかりだったのである(「実存と保守」)

 その後、西部は東大教養学部に招かれることになり、助教授として移籍する。

 「学者この喜劇的なるもの」には、横浜国大に1971(昭和46)年から3年間つとめたとあるので、西部の東大移籍は、1974年(昭和45)年のことだと思われる(西部は「寓癒としての人生」に東大移籍時期を33歳と記述しているが、「金銭の咄噺」では35歳と記述しており、こちらが正確と思われる)。
  このころになり、ようやく酒と賭博にあけくれ麻薬にすら手を出すような「『だらしない生活』は(終結はしていなかったものの)余韻を残すだけとな」っていた、という。

 1975(昭和50)年10月、36歳の西部は処女作となる著作を上梓する。

 一年半くらいに及んで、私は経済学以外の書物ばかり読んでいた。十年余にわたって読書らしいものはしていなかったから、干天の慈雨といった調子で、哲学、言語学、社会学、政治学、心理学、文化人類学というふうに、なんでも読んだ。読書に熱中しすぎたせいであろう、幻影をみることもあった。秋、埼玉県の団地に雪がしんしんと降り積もるのもみた。その自分の顔を鏡に映してみると、熱病にうかされたみたいで、ちょっと気味が悪かった。余勢をかって、数式ではなく文章を書いてみると、本当の話、なかなかの文章家だとの評判を一部でとり、その結果としてできあがったのが『ソシオ・エコノミックス』という本である。(「学者この喜劇的なるもの」)
 
 「ソシオ・エコノミックス」(中央公論社、1975)において、西部は、新古典派経済学の基礎概念を批判しその限界を指摘、過度に専門化した経済学をその他の社会科学と結びつけ、より射程の広い理論構築を目指す、社会経済学的アプローチを提唱する。
 
 西部は、この本の冒頭、この分野は自分が新古典派経済学の大海に10年のあいだ漂漾してたどりついた島であり、これから長く耕してみたいと考えている、との抱負を述べている。
 この時の西部は、あくまで経済学を内在的に批判するスタンスであった。

 その後、経済学方面の著作としては、「経済体制論第Ⅱ巻社会学的基礎」(東洋経済、1978、村上泰亮との共編著)、ケインズの評伝「ケインズ」(岩波書店、1983)、ケインズとヴェブレンの経済思想についての解釈を示した「経済倫理学序説」(中央公論社、1983)、放送大学のテキストとして「近代経済思想」(日本放送出版協会、1987)を上梓するが、社会経済学の畑を耕す方向には進まなかった。
 
 結局、経済学からは飛び出し、専門にとらわれない立場から、社会科学全体を包括する相関的な基礎理論構築を志向するようになる。

13 渡米直前

 1977(昭和52)年から2年間、西部は、国際文化会館の社会科学フェローシップを利用して、海外赴任している。
 
 今回の外国滞在に対して直接の契機を与えて下さったのは嘉治元郎教授(東京大学)であった。また同大学の宇沢弘文および内田忠夫の両教授の下された(おそらく)過分の推薦状が、年齢その他の面で筆者には本来無理であったにちがいないフェローシップの受領を可能にしたと思われる(「蜃気楼のなかへ」)

 同年1月から翌年3月までの1年3ヶ月をアメリカのカリフォルニア大学バークレイ校で過ごし、そのままイギリスに移って、その年の12月までケンブリッジ大学に籍を置くことになる。

 西部の最初期の評論集「大衆への反逆」(文芸春秋、1983)に収録された文章は、ほぼ保守思想家としての名のりをあげた後のものであり、現在の西部と同様に、戦後民主主義・大衆社会・進歩主義等を批判する文章が並んでいるのだが、ひとつだけ、同書の中に「松の木での教育」という初出が古いエッセイがある。

 「展望」昭和51年10月号に掲載されたということであるから、西部がソシオ・エコノミックスを出した翌年のものであり、アメリカ留学の3ヶ月ほど前に載せられたものである。

 エッセイの内容は、孤児に石を投げていたところを父に見つかり、木に縛りつけられ石礫を投げつけられるしつけを受けた、というその後の著作でもたびたび披露されるエピソードであるが、エッセイの味付けとしてもちいる思想家が啓蒙思想家のルソーであり、西部の文章群の中では浮いている。

 アメリカ行き直前の37歳の西部に、保守思想家としてポジションをとろうという構えは、まったく見られない。

14 アメリカへ
 
 米国滞在中は、バークレイの学者に自分の論文を読ませるなどして、意見交換の機会を持つなどしたが、あまり興味を持たれることもなく、ほとんど大学に行かずに過ごしたという。

 私は、家族の面倒をみながら、所属している大学には一切顔を出さず、アメリカでは主として道往く人々と、そしてイギリスでは主として近所の村人たちと付き合っていた(「寓喩としての人生」)

 もっとも、バークレイ校からは、訪問研究者という身分証明書と郵便箱一個が提供されているだけで、オフィスがあるわけではないから、毎日通う場所もなかったのかもしれない。

 家族の事情で断ることになったという20代での留学が実現していれば、青木昌彦のように、米国で博士論文を書くための留学となり、その後のキャリアは違ったものになっていたかもしれないが、既に30代後半で学職についている身ということもあり、経済学の研究すらせずに、自宅で言語論の本を読んで過ごした。

 このような、中途半端に思える渡米をした理由は、アメリカでの生活体験を得ることで、日本の学者らの常套句である「アメリカでは」という台詞に対抗できるから、という趣旨のものであったという。

 また、経済的なメリットもあった。

 家族連れでの長期外国滞在は、そのためのフェローシップ(給費)が出る場合(大学の月給も入っておりますので)貧乏学者の貯蓄にとっての絶好の機会なのです。(中略)子供が娘と息子となると、遠からず子供部屋が二つ必要になります。(中略)何はともあれ一戸建ての中古家でも買う、それが避けえざる処世術となるのです(「金銭の咄噺」)

 加えて、自分にかかわる学生たちの就職のため、姿を消したくなった、という理由も述べている。

 私という「変な奴」に強い関心を示してくれた大学院生が五、六人いて、就職というものに無頓着な私は、彼らとすっかり懇意に付き合うというへまをやっていた。私と付き合うということは、彼らにとって、大学で職を得るのが絶望的に困難になるということだ。責任をとるべく自分なりに努力したのだが、学界の人事に食い込むという作業がおいそれと進捗するわけがない。あれこれの失敗のあと、私が思いついたのは、私が日本からいなくなることであった。私が姿を消せば、彼らの面倒をみてくれる人間も現われるかもしれない。(略)
 事実、私が彼らを放ったらかしにしたあと、彼らの就職話は少しずつ回転し出した。今では、彼らのすべてが、学者の身分の問題としては、錚々たる立場にいるようである(「寓喩としての人生」)

 京大名誉教授の佐伯啓思や間宮陽介らのことである。

 何れが主たる目的であるにせよ、消極的な目的による渡米であったわけだが、結局、この遊学が、西部の大きな転機となる。

15 保守主義へ

 1978(昭和53)年、西部は英国に渡った。39歳のときである。
 
 米国滞在時と同じく、ケンブリッジ大学にはほとんど顔を出さずに、郊外の自宅で読書して過ごしたという。

 ここで保守主義者西部邁が誕生することになる。

 フォックストンという小村に居を定めた私は、エリザベス一世期に建てられたという萱葺き小屋のなかで、近代を創始しておきながら近代の回転を遅くせんと努めてきた英国流保守思想における、精神の微妙な政治学とでもよぶべきものの正体を把握できたように思った(「寓喩としての人生」)

 その小屋で私は、エドマンド・バークからマイケル・オークショットに至る保守の流れに属する思想家たちに触れた。それは開眼というより確認であった。それらの著作をつうじて、自分の奥底を覗き見る思いがしたのである(「寓喩としての人生」)

 おそらく二百坪にのぼる芝生の真ん中にスチール製のテーブルを出し、蝶や蜂の戯れにつきあいながら、朝鮮連翹の黄、次いで薔薇の赤というふうに自然界の色調変化に自分の体調を合わせつつ、私は、十八世紀の英国議会の議事録を眺めたり、バークの書物を読んだりしていた。その庭が私の大衆批判および保守擁護の開始の場なのであった(「学者この喜劇的なるもの」)

 かくして私は、一個の保守主義者として、それまでの乱脈に流れてきた自分の人生と学問における経験を、その一片も無駄にすることなく、互いに関連づける境地を得たように思ったわけである(「寓喩としての人生」)

 ところで、西部は保守主義の祖エドマンド・バークの生国に住んだことで、自然に保守思想に触れることになり、保守主義に開眼した、というわけではない。

 西部のフェローシップには、アメリカの一つの大学に二年滞在して研究するという条件があった。米国滞在中の西部は、英国で保守思想を学ぶことが重要であるとして、特例措置で英国行きを求める申請書を提出して、渡英が認められたという(「金銭の咄噺」)。

 要するに、英国行きの前から、既に保守思想の研究を予定していたのである。

 結局のところ、アメリカ滞在での体験が保守主義の必要性を認識させ、英国でその重要性を確認した、ということなのであろう。  <了>

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