西部邁とその時代②



7 大学院へ

 当時の国立大学は、これだけの事件を起こしても、退学にはならないものらしい。
 1958年に入学し、教養学部に4年間在籍した西部は、経済学部に進み、1964(昭和39)年に東京大学を卒業する。
 卒業後は、同大学の大学院に進学するのだが、この進学は、二年上級のブント仲間で、後に国際的な経済学者になる青木昌彦がきっかけであるという。

 唐牛健太郎(六十年当時の全学連委員長)から久しぶりに電話が入り、いま青木昌彦(同中央執行委員)と飲んでいるんで渋谷まで出てこないかという。彼女を下宿においていってみると、唐牛は宇都宮刑務所を出たあと田中清玄(右翼的な実業家兼思想家)の事務所で働いていて、溌剌としている。青木も東大経済学部の大学院生となって、爽快な顔付きで飲んでいる。
 唐牛 おい西部、お前いくとこないんだろう、清玄のところにこないか。 

 私は返事を濁している。そのうち唐牛は便所に立つ。

 青木 清玄のとこにいっても仕様がないぜ。近代経済学で大学院を受けてみないか。本を貸してやるよ。論文を書きゃ入れんだ。 

  うん、そうする。明日、風呂敷もって本を借りにいくよ。
 (「学者この喜劇的なるもの」草思社、1989) 

 1963(昭和38)年の夏、西部は札幌の実家で、ジョーン・ロビンソンやニコラス・カルドアを、マルクスの資本蓄積論と比較検討する百二十三枚の論文を書き上げ、その秋に大学に提出し、面接を経て合格した。本来、学部の所属ゼミの教官が推薦状を出すという条件があったのだが、西部はそれを知らず、教授会も推薦状がないということに気づかず、合格が公表されたため、推薦状がないことは不問に付されたのだという。

8 二十代の生活

 大学院に進学した西部は、官庁の外郭団体の調査研究所で稼働して生計を立てていた。

 アルバイトの身分だが、週5日間9時から17時までのほぼフルタイム仕事で、対外的には正式職員の名刺を持ち、各地へ出張して中小企業工業団地建設のための立地条件を調査してまわる。そうして取得した地域経済に関するデータを整理し、オリベッティの電気計算機を使用して、「予測方程式の係数や定数項の理論値を統計的な回帰分析によって求める」、というものであった。「金銭の咄噺」(NTT出版、2012)で記述される時系列をそのまま読めば、このアルバイトは、大学院に入る前、学部の最終年である1963(昭和38)年の夏前にはじめており、おそらく1967~68(昭和42~43)年ころまで続けていた、ということになる。
収入は悪いものではなく、生活に困るようなものではなかった。

 大学院に進学した1964(昭和39)年5月、西部は、札幌南高校の同級生と結婚している。6・15国会事件では実刑になり、いずれ刑務所に入るものと予測していた西部は、執行猶予がついたら結婚しようと考えていたが、相手に実刑でも良いと言われ、25歳で結婚に踏みきることになったという。
 妻の父は医師で、実家に挨拶した際には、相手の母に「大学院生など掃いて捨てるほどいる」と言われたというから、刑事被告人の東大院生は、歓迎されなかったのだろう。

9 執行猶予

 1965(昭和40)年の夏、6月15日国会事件の地裁判決が下った。

 裁判官は私にたいして執行猶予という異様に軽い判決を下した。「1・16羽田事件」と「6・3首相官邸事件」では執行猶予になるかもしれぬと思ってはいたが、「6・15国会事件」では、十中八、九、いや百のうち九十九まで、実刑になると私は考えていた。被告仲間だけでなく、弁護士もそう予想していた。(略)検事は、量刑不当との理由で、私を高裁に送った。だが、慣性の法則というやつなのだろうか、あるいは「西部君は大学院でまじめに勉強しております」という弁護士の手配したK教授の情状酌量の弁が少しは利いたのであろうか、高裁でも控訴棄却という結果になった(「寓喩としての人生」)

 K教授とは、大学院で西部の指導教官をしていた嘉治元郎である。これにより、西部の3つの裁判はすべて執行猶予となった。

 この地裁判決時の被告らの様子をブント仲間の長崎浩がスケッチしている。

 六・一五闘争の判決公判があった。十時から三時まで、山田裁判長の判決文の朗読を聴いた。(略)内田、倉田などの弁護士が、”今日の判決をどう感じた?常木、判決文の「烏合の衆」論はどうだった?”などと話をきり出そうとしても、皆てんでんばらばら、きちんと坐っている者もない。まして、誰も弁護士に答えない。西部(邁)は、”もう帰ってもいいでしよ”といって出ていく。北小路(敏)だけが、まったくのところかつてと同じような態度で、何とか弁護士と話をしようとする。控訴するかどうかは”いろんなひとと相談して決める”etcと。”お母さんはまだ以前の所に住んでいるのか”など、ぼくにたいしてもあいそがいい。有賀(信勇)の鄭重さ。これも昔大学の細胞でいっしょの頃と変わっていない。坂野(潤治)は判決文で自分の地位が”兵隊にされた”ことをいう。加藤(尚武)は被告団でのランキングが判決文で一つ上がったことをいう。西部は”世の中すべて俺のいうとおりになる”、etc,etc.》(「一九六〇年代」作品社・長崎浩)

 西部の不遜な態度が目に付く。
 このような態度の理由について西部は、

 私は知っていた、被告団の少なくない部分が私に実刑の下ることをひそかに望んでいたことを。なぜといって、それはわれらの事犯が大事件であったことを証明するのであり、いわば被告のステータスを上げてくれるからである。「世の中すべて俺のいうとおりになる」といったのは、執行猶予を私が予測していたことを広言することによって、そうした矮小な虚栄心に反発したかったためである(「学者この喜劇的なるもの」)

と説明している。

 60年安保のころに21歳の西部は、この地裁判決時26歳。
 その後高裁での審理が2年ほどなされて刑が確定したということであるから、
 およそ28歳まで刑事裁判の被告人をしていた、ということになる。

10 全共闘と西部邁

 正確な年月は詳らかではないが、西部は、1969(昭和44)年ころから、前述のアルバイト先とは別の研究所に、正式職員として稼働するようになった。

 宇沢弘文東大教授が準備したアメリカ留学の話を、西部が一度受諾しておきながら、家族の事情から断ることになった。そのことで、一時的に宇沢との関係が悪化し、それにからんでそれまでのアルバイト先にいられなくなり、経済的に困窮したところ、他の教授の紹介で、別の研究所に就職できることになった、と記述されている(ただし、西部の著作では宇沢と名指しされてはいない)。

 全共闘の学生運動が盛んなこの時代の西部について、東大経済学部の2年後輩の柄谷行人が、

 ぼくもやはり、全共闘に”熱狂”していたんですよ。口を開けば批判しかしませんが。だけどぼくは、西部邁と二人で、デモがあるとみんな見に行った(笑)。どうしてオレは、こんなに野次馬なんだと思ったけどね。「行こう行こう」と言って、行った。その頃、昔のブントのやつらも来てるわけよ。そして、革マルがいいとか、そういうこと言うと、「おまえは除名」とか言って(笑)、かってに除名したりしていたけどさ。うむを言わせず、おもしろいということがありましたね。自分が存在論的に広がる感じなんですよ。それが終わると、ひゅうっとしぼむ感じでね。(「現在との対話 ポスト・モダニズム批判/拠点から虚点へ」作品社・柄谷行人)

 このように述べている。

 西部が、柄谷と同じように熱狂していたかは分からないが、この”ノリ”の友とデモがあるたびに見物にいく人物が、少なくとも、冷めた気持ちとは考えにくい。

 なお、佐野眞一の「唐牛伝」(新潮社)には、東大医学部出身の石井暎禧の話として、1969年、唐牛健太郎が、東京大学駒場の8号館に立てこもりを続ける学生に、ヘリコプターで食料を投下する計画を立てたことがあり、それを聞きつけた西部の血が騒ぎ、「何かオレに手伝うことはないかって言ってきたことがある」、というエピソードが披露されている。
 もっとも、これは西部が直ちに不快感まるだしの否定をしており(表現者第69号)、石井の何らかの記憶違いなのだろう。

 西部自身は、

 全共闘の左翼運動にたいして、理論的にはいささかも与することができなかったにもかわらず、心情的には闇雲に同情するところがあった(「学者この喜劇的なるもの」)

と述懐している。

11 横浜国大助教授

 1971(昭和46)年、西部は、横浜国立大学経済学部の助教授となる。
  
 ある数理経済学の模型がなかなかうまく完成しない、ということがその方面の研究者のあいだで少々話題になっていた。大した模型ではないのだが、ともかくその問題をめぐる「パズル解き」が難航していたのである。そして私にもそのことが気掛りであった。何度かそのパズル解きに挑戦して失敗してもいた。
 ある日の昼下がり、私は西武線の高田馬場駅のベンチに座っていた。前夜、朝まで素人博打をやり、どこぞの安宿に泊って、帰宅しようとしていたのである。翌日は、数理経済学の世界的権威といわれていたある教授のセミナーが開かれる。彼はかならず、俺が何をやっているか、尋ねてくるだろう。まさか博打と酒ですともいえないしなあなどと思いながら、例のパズル解きをやり出した。電車を何回かやり過ごしながら、紙と鉛筆であれこれやっていると、ぐしゃぐしゃになっていた私の頭が、突然に、そのパズル解きをやってしまったのである。
 その教授は大いに喜んでくれ、ある国際学会のすでに決まっていたプログラムに、その国際的権威をもって、強引に私の論文を押し込んでくれた。何人かのものを集めて私のブレーク・スルーを祝ってくれもした(「寓喩としての人生」)

 突然の不思議なひらめきによりアイディアが出て、それを論文にまとめ、宇沢弘文に、「ブレイクスルーだね」と言われ、それを業績として、スムーズに学職につくことができた、ということである。

 ごく順調な人生を歩んでいるようであるが、西部によれば、同大学に勤めていたころの生活ぶりが、もっとも荒んでいた時期であるという。

 アル中でもないのに毎夜酒を飲み、点棒をきちんと算える気すらないのに賭け麻雀に加わり、元手も少ないのにチンチロリンの骰子賭博に現を抜かし、ジャンキー(麻薬中毒患者)になる気などさらさらないのにあれこれの麻薬で幻覚を味わって暫し憂さを忘れる、といったようなことを繰り返していたわけだ。
 そんな状態で大学の俸給を(国民の税金から)頂戴してよいのかと自問したこともあるが、講義を人並みにこなしていれば文句をいわれる筋合もあるまい、と居直っていた(「実存と保守」角川春樹事務所、2013)

 試した麻薬というのも本格的なものであり、マリファナ、LSD、さらに一度だけだが覚せい剤も体験してみた、と告白している。

 同じころ、連合赤軍の凄惨なリンチ事件が起き、1972(昭和47)年2月~3月にかけて、警察の捜査により、その内容が詳らかになっていく。

 そして連合赤軍の事件が起こった。恥ずかしいことに、銃を手にして国家に反逆する青年たちにたいする共感が、というよりも自分のかつての反逆をどこかで肯定したいという甘えた気分が、自分のうちに少々残っていた。(中略)「連赤」のむごたらしいリンチの顛末が報道されるにつれ、私は「道徳的反省」というものを生まれてはじめてやらざるをえない破目に陥った(「寓喩としての人生」)

 自己の左翼体験と重ねて、生れてはじめての道徳的反省したという、強い書きぶりに、受けた衝撃の大きさがうかがえる。

 ← 戻る
 → 次へ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です