西部邁とその時代③



12 東大助教授/ソシオ・エコノミックス

 近代経済学の習得に約10年を費やし、横浜国大に奉職した西部であるが、既に専門分野への興味をなくしつつあった。

 まさにその頃、彼は近代経済学というもの全般にたいして本格的な関心を失いつつあった。人間の経済活動にも「文化における価値」、「社会における慣習」、「政治における権力」が強かれ弱かれ関与しているはずだ。それらをバッサリ切り捨てるのは、一体全体、いかなる了見にもとづいてのことなのかと青年は首をかしげ、その首の傾斜が大きくなっていくばかりだったのである(「実存と保守」)

 その後、西部は東大教養学部に招かれることになり、助教授として移籍する。

 「学者この喜劇的なるもの」には、横浜国大に1971(昭和46)年から3年間つとめたとあるので、西部の東大移籍は、1974年(昭和45)年のことだと思われる(西部は「寓癒としての人生」に東大移籍時期を33歳と記述しているが、「金銭の咄噺」では35歳と記述しており、こちらが正確と思われる)。
  このころになり、ようやく酒と賭博にあけくれ麻薬にすら手を出すような「『だらしない生活』は(終結はしていなかったものの)余韻を残すだけとな」っていた、という。

 1975(昭和50)年10月、36歳の西部は処女作となる著作を上梓する。

 一年半くらいに及んで、私は経済学以外の書物ばかり読んでいた。十年余にわたって読書らしいものはしていなかったから、干天の慈雨といった調子で、哲学、言語学、社会学、政治学、心理学、文化人類学というふうに、なんでも読んだ。読書に熱中しすぎたせいであろう、幻影をみることもあった。秋、埼玉県の団地に雪がしんしんと降り積もるのもみた。その自分の顔を鏡に映してみると、熱病にうかされたみたいで、ちょっと気味が悪かった。余勢をかって、数式ではなく文章を書いてみると、本当の話、なかなかの文章家だとの評判を一部でとり、その結果としてできあがったのが『ソシオ・エコノミックス』という本である。(「学者この喜劇的なるもの」)
 
 「ソシオ・エコノミックス」(中央公論社、1975)において、西部は、新古典派経済学の基礎概念を批判しその限界を指摘、過度に専門化した経済学をその他の社会科学と結びつけ、より射程の広い理論構築を目指す、社会経済学的アプローチを提唱する。
 
 西部は、この本の冒頭、この分野は自分が新古典派経済学の大海に10年のあいだ漂漾してたどりついた島であり、これから長く耕してみたいと考えている、との抱負を述べている。
 この時の西部は、あくまで経済学を内在的に批判するスタンスであった。

 その後、経済学方面の著作としては、「経済体制論第Ⅱ巻社会学的基礎」(東洋経済、1978、村上泰亮との共編著)、ケインズの評伝「ケインズ」(岩波書店、1983)、ケインズとヴェブレンの経済思想についての解釈を示した「経済倫理学序説」(中央公論社、1983)、放送大学のテキストとして「近代経済思想」(日本放送出版協会、1987)を上梓するが、社会経済学の畑を耕す方向には進まなかった。
 
 結局、経済学からは飛び出し、専門にとらわれない立場から、社会科学全体を包括する相関的な基礎理論構築を志向するようになる。

13 渡米直前

 1977(昭和52)年から2年間、西部は、国際文化会館の社会科学フェローシップを利用して、海外赴任している。
 
 今回の外国滞在に対して直接の契機を与えて下さったのは嘉治元郎教授(東京大学)であった。また同大学の宇沢弘文および内田忠夫の両教授の下された(おそらく)過分の推薦状が、年齢その他の面で筆者には本来無理であったにちがいないフェローシップの受領を可能にしたと思われる(「蜃気楼のなかへ」)

 同年1月から翌年3月までの1年3ヶ月をアメリカのカリフォルニア大学バークレイ校で過ごし、そのままイギリスに移って、その年の12月までケンブリッジ大学に籍を置くことになる。

 西部の最初期の評論集「大衆への反逆」(文芸春秋、1983)に収録された文章は、ほぼ保守思想家としての名のりをあげた後のものであり、現在の西部と同様に、戦後民主主義・大衆社会・進歩主義等を批判する文章が並んでいるのだが、ひとつだけ、同書の中に「松の木での教育」という初出が古いエッセイがある。

 「展望」昭和51年10月号に掲載されたということであるから、西部がソシオ・エコノミックスを出した翌年のものであり、アメリカ留学の3ヶ月ほど前に載せられたものである。

 エッセイの内容は、孤児に石を投げていたところを父に見つかり、木に縛りつけられ石礫を投げつけられるしつけを受けた、というその後の著作でもたびたび披露されるエピソードであるが、エッセイの味付けとしてもちいる思想家が啓蒙思想家のルソーであり、西部の文章群の中では浮いている。

 アメリカ行き直前の37歳の西部に、保守思想家としてポジションをとろうという構えは、まったく見られない。

14 アメリカへ
 
 米国滞在中は、バークレイの学者に自分の論文を読ませるなどして、意見交換の機会を持つなどしたが、あまり興味を持たれることもなく、ほとんど大学に行かずに過ごしたという。

 私は、家族の面倒をみながら、所属している大学には一切顔を出さず、アメリカでは主として道往く人々と、そしてイギリスでは主として近所の村人たちと付き合っていた(「寓喩としての人生」)

 もっとも、バークレイ校からは、訪問研究者という身分証明書と郵便箱一個が提供されているだけで、オフィスがあるわけではないから、毎日通う場所もなかったのかもしれない。

 家族の事情で断ることになったという20代での留学が実現していれば、青木昌彦のように、米国で博士論文を書くための留学となり、その後のキャリアは違ったものになっていたかもしれないが、既に30代後半で学職についている身ということもあり、経済学の研究すらせずに、自宅で言語論の本を読んで過ごした。

 このような、中途半端に思える渡米をした理由は、アメリカでの生活体験を得ることで、日本の学者らの常套句である「アメリカでは」という台詞に対抗できるから、という趣旨のものであったという。

 また、経済的なメリットもあった。

 家族連れでの長期外国滞在は、そのためのフェローシップ(給費)が出る場合(大学の月給も入っておりますので)貧乏学者の貯蓄にとっての絶好の機会なのです。(中略)子供が娘と息子となると、遠からず子供部屋が二つ必要になります。(中略)何はともあれ一戸建ての中古家でも買う、それが避けえざる処世術となるのです(「金銭の咄噺」)

 加えて、自分にかかわる学生たちの就職のため、姿を消したくなった、という理由も述べている。

 私という「変な奴」に強い関心を示してくれた大学院生が五、六人いて、就職というものに無頓着な私は、彼らとすっかり懇意に付き合うというへまをやっていた。私と付き合うということは、彼らにとって、大学で職を得るのが絶望的に困難になるということだ。責任をとるべく自分なりに努力したのだが、学界の人事に食い込むという作業がおいそれと進捗するわけがない。あれこれの失敗のあと、私が思いついたのは、私が日本からいなくなることであった。私が姿を消せば、彼らの面倒をみてくれる人間も現われるかもしれない。(略)
 事実、私が彼らを放ったらかしにしたあと、彼らの就職話は少しずつ回転し出した。今では、彼らのすべてが、学者の身分の問題としては、錚々たる立場にいるようである(「寓喩としての人生」)

 京大名誉教授の佐伯啓思や間宮陽介らのことである。

 何れが主たる目的であるにせよ、消極的な目的による渡米であったわけだが、結局、この遊学が、西部の大きな転機となる。

15 保守主義へ

 1978(昭和53)年、西部は英国に渡った。39歳のときである。
 
 米国滞在時と同じく、ケンブリッジ大学にはほとんど顔を出さずに、郊外の自宅で読書して過ごしたという。

 ここで保守主義者西部邁が誕生することになる。

 フォックストンという小村に居を定めた私は、エリザベス一世期に建てられたという萱葺き小屋のなかで、近代を創始しておきながら近代の回転を遅くせんと努めてきた英国流保守思想における、精神の微妙な政治学とでもよぶべきものの正体を把握できたように思った(「寓喩としての人生」)

 その小屋で私は、エドマンド・バークからマイケル・オークショットに至る保守の流れに属する思想家たちに触れた。それは開眼というより確認であった。それらの著作をつうじて、自分の奥底を覗き見る思いがしたのである(「寓喩としての人生」)

 おそらく二百坪にのぼる芝生の真ん中にスチール製のテーブルを出し、蝶や蜂の戯れにつきあいながら、朝鮮連翹の黄、次いで薔薇の赤というふうに自然界の色調変化に自分の体調を合わせつつ、私は、十八世紀の英国議会の議事録を眺めたり、バークの書物を読んだりしていた。その庭が私の大衆批判および保守擁護の開始の場なのであった(「学者この喜劇的なるもの」)

 かくして私は、一個の保守主義者として、それまでの乱脈に流れてきた自分の人生と学問における経験を、その一片も無駄にすることなく、互いに関連づける境地を得たように思ったわけである(「寓喩としての人生」)

 ところで、西部は保守主義の祖エドマンド・バークの生国に住んだことで、自然に保守思想に触れることになり、保守主義に開眼した、というわけではない。

 西部のフェローシップには、アメリカの一つの大学に二年滞在して研究するという条件があった。米国滞在中の西部は、英国で保守思想を学ぶことが重要であるとして、特例措置で英国行きを求める申請書を提出して、渡英が認められたという(「金銭の咄噺」)。

 要するに、英国行きの前から、既に保守思想の研究を予定していたのである。

 結局のところ、アメリカ滞在での体験が保守主義の必要性を認識させ、英国でその重要性を確認した、ということなのであろう。  <了>

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西部邁とその時代②



7 大学院へ

 当時の国立大学は、これだけの事件を起こしても、退学にはならないものらしい。
 1958年に入学し、教養学部に4年間在籍した西部は、経済学部に進み、1964(昭和39)年に東京大学を卒業する。
 卒業後は、同大学の大学院に進学するのだが、この進学は、二年上級のブント仲間で、後に国際的な経済学者になる青木昌彦がきっかけであるという。

 唐牛健太郎(六十年当時の全学連委員長)から久しぶりに電話が入り、いま青木昌彦(同中央執行委員)と飲んでいるんで渋谷まで出てこないかという。彼女を下宿においていってみると、唐牛は宇都宮刑務所を出たあと田中清玄(右翼的な実業家兼思想家)の事務所で働いていて、溌剌としている。青木も東大経済学部の大学院生となって、爽快な顔付きで飲んでいる。
 唐牛 おい西部、お前いくとこないんだろう、清玄のところにこないか。 

 私は返事を濁している。そのうち唐牛は便所に立つ。

 青木 清玄のとこにいっても仕様がないぜ。近代経済学で大学院を受けてみないか。本を貸してやるよ。論文を書きゃ入れんだ。 

  うん、そうする。明日、風呂敷もって本を借りにいくよ。
 (「学者この喜劇的なるもの」草思社、1989) 

 1963(昭和38)年の夏、西部は札幌の実家で、ジョーン・ロビンソンやニコラス・カルドアを、マルクスの資本蓄積論と比較検討する百二十三枚の論文を書き上げ、その秋に大学に提出し、面接を経て合格した。本来、学部の所属ゼミの教官が推薦状を出すという条件があったのだが、西部はそれを知らず、教授会も推薦状がないということに気づかず、合格が公表されたため、推薦状がないことは不問に付されたのだという。

8 二十代の生活

 大学院に進学した西部は、官庁の外郭団体の調査研究所で稼働して生計を立てていた。

 アルバイトの身分だが、週5日間9時から17時までのほぼフルタイム仕事で、対外的には正式職員の名刺を持ち、各地へ出張して中小企業工業団地建設のための立地条件を調査してまわる。そうして取得した地域経済に関するデータを整理し、オリベッティの電気計算機を使用して、「予測方程式の係数や定数項の理論値を統計的な回帰分析によって求める」、というものであった。「金銭の咄噺」(NTT出版、2012)で記述される時系列をそのまま読めば、このアルバイトは、大学院に入る前、学部の最終年である1963(昭和38)年の夏前にはじめており、おそらく1967~68(昭和42~43)年ころまで続けていた、ということになる。
収入は悪いものではなく、生活に困るようなものではなかった。

 大学院に進学した1964(昭和39)年5月、西部は、札幌南高校の同級生と結婚している。6・15国会事件では実刑になり、いずれ刑務所に入るものと予測していた西部は、執行猶予がついたら結婚しようと考えていたが、相手に実刑でも良いと言われ、25歳で結婚に踏みきることになったという。
 妻の父は医師で、実家に挨拶した際には、相手の母に「大学院生など掃いて捨てるほどいる」と言われたというから、刑事被告人の東大院生は、歓迎されなかったのだろう。

9 執行猶予

 1965(昭和40)年の夏、6月15日国会事件の地裁判決が下った。

 裁判官は私にたいして執行猶予という異様に軽い判決を下した。「1・16羽田事件」と「6・3首相官邸事件」では執行猶予になるかもしれぬと思ってはいたが、「6・15国会事件」では、十中八、九、いや百のうち九十九まで、実刑になると私は考えていた。被告仲間だけでなく、弁護士もそう予想していた。(略)検事は、量刑不当との理由で、私を高裁に送った。だが、慣性の法則というやつなのだろうか、あるいは「西部君は大学院でまじめに勉強しております」という弁護士の手配したK教授の情状酌量の弁が少しは利いたのであろうか、高裁でも控訴棄却という結果になった(「寓喩としての人生」)

 K教授とは、大学院で西部の指導教官をしていた嘉治元郎である。これにより、西部の3つの裁判はすべて執行猶予となった。

 この地裁判決時の被告らの様子をブント仲間の長崎浩がスケッチしている。

 六・一五闘争の判決公判があった。十時から三時まで、山田裁判長の判決文の朗読を聴いた。(略)内田、倉田などの弁護士が、”今日の判決をどう感じた?常木、判決文の「烏合の衆」論はどうだった?”などと話をきり出そうとしても、皆てんでんばらばら、きちんと坐っている者もない。まして、誰も弁護士に答えない。西部(邁)は、”もう帰ってもいいでしよ”といって出ていく。北小路(敏)だけが、まったくのところかつてと同じような態度で、何とか弁護士と話をしようとする。控訴するかどうかは”いろんなひとと相談して決める”etcと。”お母さんはまだ以前の所に住んでいるのか”など、ぼくにたいしてもあいそがいい。有賀(信勇)の鄭重さ。これも昔大学の細胞でいっしょの頃と変わっていない。坂野(潤治)は判決文で自分の地位が”兵隊にされた”ことをいう。加藤(尚武)は被告団でのランキングが判決文で一つ上がったことをいう。西部は”世の中すべて俺のいうとおりになる”、etc,etc.》(「一九六〇年代」作品社・長崎浩)

 西部の不遜な態度が目に付く。
 このような態度の理由について西部は、

 私は知っていた、被告団の少なくない部分が私に実刑の下ることをひそかに望んでいたことを。なぜといって、それはわれらの事犯が大事件であったことを証明するのであり、いわば被告のステータスを上げてくれるからである。「世の中すべて俺のいうとおりになる」といったのは、執行猶予を私が予測していたことを広言することによって、そうした矮小な虚栄心に反発したかったためである(「学者この喜劇的なるもの」)

と説明している。

 60年安保のころに21歳の西部は、この地裁判決時26歳。
 その後高裁での審理が2年ほどなされて刑が確定したということであるから、
 およそ28歳まで刑事裁判の被告人をしていた、ということになる。

10 全共闘と西部邁

 正確な年月は詳らかではないが、西部は、1969(昭和44)年ころから、前述のアルバイト先とは別の研究所に、正式職員として稼働するようになった。

 宇沢弘文東大教授が準備したアメリカ留学の話を、西部が一度受諾しておきながら、家族の事情から断ることになった。そのことで、一時的に宇沢との関係が悪化し、それにからんでそれまでのアルバイト先にいられなくなり、経済的に困窮したところ、他の教授の紹介で、別の研究所に就職できることになった、と記述されている(ただし、西部の著作では宇沢と名指しされてはいない)。

 全共闘の学生運動が盛んなこの時代の西部について、東大経済学部の2年後輩の柄谷行人が、

 ぼくもやはり、全共闘に”熱狂”していたんですよ。口を開けば批判しかしませんが。だけどぼくは、西部邁と二人で、デモがあるとみんな見に行った(笑)。どうしてオレは、こんなに野次馬なんだと思ったけどね。「行こう行こう」と言って、行った。その頃、昔のブントのやつらも来てるわけよ。そして、革マルがいいとか、そういうこと言うと、「おまえは除名」とか言って(笑)、かってに除名したりしていたけどさ。うむを言わせず、おもしろいということがありましたね。自分が存在論的に広がる感じなんですよ。それが終わると、ひゅうっとしぼむ感じでね。(「現在との対話 ポスト・モダニズム批判/拠点から虚点へ」作品社・柄谷行人)

 このように述べている。

 西部が、柄谷と同じように熱狂していたかは分からないが、この”ノリ”の友とデモがあるたびに見物にいく人物が、少なくとも、冷めた気持ちとは考えにくい。

 なお、佐野眞一の「唐牛伝」(新潮社)には、東大医学部出身の石井暎禧の話として、1969年、唐牛健太郎が、東京大学駒場の8号館に立てこもりを続ける学生に、ヘリコプターで食料を投下する計画を立てたことがあり、それを聞きつけた西部の血が騒ぎ、「何かオレに手伝うことはないかって言ってきたことがある」、というエピソードが披露されている。
 もっとも、これは西部が直ちに不快感まるだしの否定をしており(表現者第69号)、石井の何らかの記憶違いなのだろう。

 西部自身は、

 全共闘の左翼運動にたいして、理論的にはいささかも与することができなかったにもかわらず、心情的には闇雲に同情するところがあった(「学者この喜劇的なるもの」)

と述懐している。

11 横浜国大助教授

 1971(昭和46)年、西部は、横浜国立大学経済学部の助教授となる。
  
 ある数理経済学の模型がなかなかうまく完成しない、ということがその方面の研究者のあいだで少々話題になっていた。大した模型ではないのだが、ともかくその問題をめぐる「パズル解き」が難航していたのである。そして私にもそのことが気掛りであった。何度かそのパズル解きに挑戦して失敗してもいた。
 ある日の昼下がり、私は西武線の高田馬場駅のベンチに座っていた。前夜、朝まで素人博打をやり、どこぞの安宿に泊って、帰宅しようとしていたのである。翌日は、数理経済学の世界的権威といわれていたある教授のセミナーが開かれる。彼はかならず、俺が何をやっているか、尋ねてくるだろう。まさか博打と酒ですともいえないしなあなどと思いながら、例のパズル解きをやり出した。電車を何回かやり過ごしながら、紙と鉛筆であれこれやっていると、ぐしゃぐしゃになっていた私の頭が、突然に、そのパズル解きをやってしまったのである。
 その教授は大いに喜んでくれ、ある国際学会のすでに決まっていたプログラムに、その国際的権威をもって、強引に私の論文を押し込んでくれた。何人かのものを集めて私のブレーク・スルーを祝ってくれもした(「寓喩としての人生」)

 突然の不思議なひらめきによりアイディアが出て、それを論文にまとめ、宇沢弘文に、「ブレイクスルーだね」と言われ、それを業績として、スムーズに学職につくことができた、ということである。

 ごく順調な人生を歩んでいるようであるが、西部によれば、同大学に勤めていたころの生活ぶりが、もっとも荒んでいた時期であるという。

 アル中でもないのに毎夜酒を飲み、点棒をきちんと算える気すらないのに賭け麻雀に加わり、元手も少ないのにチンチロリンの骰子賭博に現を抜かし、ジャンキー(麻薬中毒患者)になる気などさらさらないのにあれこれの麻薬で幻覚を味わって暫し憂さを忘れる、といったようなことを繰り返していたわけだ。
 そんな状態で大学の俸給を(国民の税金から)頂戴してよいのかと自問したこともあるが、講義を人並みにこなしていれば文句をいわれる筋合もあるまい、と居直っていた(「実存と保守」角川春樹事務所、2013)

 試した麻薬というのも本格的なものであり、マリファナ、LSD、さらに一度だけだが覚せい剤も体験してみた、と告白している。

 同じころ、連合赤軍の凄惨なリンチ事件が起き、1972(昭和47)年2月~3月にかけて、警察の捜査により、その内容が詳らかになっていく。

 そして連合赤軍の事件が起こった。恥ずかしいことに、銃を手にして国家に反逆する青年たちにたいする共感が、というよりも自分のかつての反逆をどこかで肯定したいという甘えた気分が、自分のうちに少々残っていた。(中略)「連赤」のむごたらしいリンチの顛末が報道されるにつれ、私は「道徳的反省」というものを生まれてはじめてやらざるをえない破目に陥った(「寓喩としての人生」)

 自己の左翼体験と重ねて、生れてはじめての道徳的反省したという、強い書きぶりに、受けた衝撃の大きさがうかがえる。

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西部邁とその時代①



西部邁とその時代①

 今年(2018年)1月21日、多摩川で亡くなった西部邁先生の著作をもとに、生い立ちから保守主義者になるまでを振り返ります。

1 生い立ち

 西部邁は、1939(昭和14)年3月15日、北海道山越郡長万部村で生まれた。四歳から北海道札幌郡白石村字厚別に移り、高校の途中まで同村で育っている。もう少し正確に正確にいえば、小学5年生時に帯広市に転居したが、6年生の冬には厚別に戻っている。

 厚別の西部家は、現在新札幌駅の近くにある真宗大谷派智徳寺敷地内の、国道沿い建っていた。同寺の住職婦人が、父の従姉にあたる縁で、寺の土地を借りていた、とのことである。

 白石村字厚別は、1950(昭和25)年に白石村が札幌市と合併し、札幌市厚別町となった後、現在は札幌市厚別区となっている。新札幌駅周辺は、戦後札幌の副都心としての開発がなされ、商業施設や集合住宅が建ちならぶ地域になっているが、当時は農村地帯であり、西部の自宅前は果樹園が広がっていた。智徳寺の隣には、真宗高田派の大行寺があり、西部によれば、その寺の墓地はそのまま深い原生林につながっており、現在新札幌駅がある場所は、当時は墓地であった、とのことである。

 西部が通った信濃小学校は、厚別区厚別中央の、厚別駅に近い場所にある。西部家から厚別駅までは徒歩15分程度であるから、現在の新札幌駅から厚別駅一帯のエリアが、西部少年の遊び場であったと思われる。
 
 なお、西部家は、西部の高校生時に、札幌市の中心部に近い、札幌市中央区南二十条西11丁目に転居している。西部の著作には厚別に住んでいた時期を16歳までとしたものや、高校3年から札幌に移ったという記述があり、正確な時期は詳らかではないが、16歳から17歳ころまでは、白石村字厚別という小さな村で成長した。

2 父の失業
 
 西部の父は、北海道夕張郡長沼村(現在は長沼町)の浄土真宗の寺で育った。名は仏教徒らしく「深諦」。
 西部の母は、同村の農家の生まれである。

 「サンチョ・キホーテの旅」(新潮社、2009)によれば、西部の両親は、長沼村の同級生で、結婚すると、すぐに満州に移住するため出発したが、二・二六事件により交通が遮断され、秋田県で足止めされる。そこで気が変わって北海道に戻り、深諦は、姉の夫の紹介で長万部町で農協団体の職員として採用された、とのことである。

 深諦の勤務先は、札幌や帯広・網走・根室にも拠点があるので、長万部の地域農協の所属ではなく、おそらくホクレン(農業組合連合会)のような全道的な組織に採用されたのだろう。西部家は、邁四歳時に厚別に移住して、深諦は札幌に通勤するようになる。

 その父は、上司と衝突し、帯広に左遷され、勤めを一度辞めている。

 私が中学生となって札幌に汽車通学を始めた頃、父はその友人と肥料会社を起こし、またたくまに失敗した。収入ゼロの期間が二年か三年続いたのであろうか、父はやむなく元の職場へと(元の仲間の)温情で出戻り、極北の地・網走へと飛ばされて行った(「サンチョキホーテの旅」)

 西部の父が肥料会社の起業に失敗したのは、西部が多感な中学生のころであることから、西部の著作には貧困家庭のエピソードが少なくない。

 兄と私は、しばしば、弁当を持たずに通学していた。(中略)在校生千五百人という大きな中学校であったが、昼休みの弁当時間、屋内運動場に出てくるのが兄と私だけということも何度かあった。私がこちらの入口あたりからバスケットボールを蹴ると、向こうの入口あたりから兄がそれを蹴り返す。お互いに一言も発せずに、三十分後、それぞれ教室に戻るわけだ。(「寓喩としての人生」徳間書店、1998)

 子どものころに、貧しく腹を空かせていたエピソードは、西部の文章に頻繁にあらわれる。
 もっとも、父が復職して数年後には、四人の妹がいる状況下、ひとつ年上の兄は一浪して北大に、西部も一浪して大学に進学している。大学進学率が10%程度の時代、西部家は裕福とまでは言えなくとも、貧困状態は一時的なものであったと思われる。

3 東大入学とブント加入

 西部は、札幌市中央区の柏中中学校を経て、札幌南高校を卒業する。高校卒業時の学力は北大がよいところであったが、すでに一浪して北大を目指していた兄と同学年になることをきらい、一浪し東京大学を受験する。

 受験のために夜汽車で東京に向かった。青森をだいぶ過ぎたあたりであったろうか、がらがらの客車に中卒者たちが四人、隣の席にいて、「高校にいったって何の役にも立たないんだ。しっかりはたらいてカネを稼ぐのが大事なんだ」としゃべり合っていた。すでに始まっていた集団就職の一団だったのであろう。互いに励まし合うような、しかし不安を丸出しにした、その幼い会話を聞いていて、私はある種の感動を覚えていた(「寓喩としての人生」)

 1958年(昭和33年)、東京大学に合格した西部は、入学後まもなく左翼活動に身を投じる。

 まず、その六月に日本共産党への入党を大学キャンパスの路上で誘われ、三十秒も考えずに、それに応じた。その半年後に、共産党を除名され、つづいて共産主義者同盟、略してブントなる新左翼のはしりの組織に加わった(「寓喩としての人生」)

 当時を生きていない人間には、岸信介総理の政権下の安保反対デモで、全学連が先陣をきり国会に乱入するなどの狼藉をはたらいた、という程度の知識しかないのが、一般的であろう。ブントが何かを理解するのがむずかしい。

 全学連とは、「全日本学生自治会総連合」のことで、学生自治会の全国組織である。安保の頃は主流派、反主流派に分かれていた。反主流派(少数派)のほうが、日本共産党系である。二段階革命でなく、直接に日本帝国主義と対決して、社会主義革命をめざそう。そういう主張が、六全協以来の方針に飽きたらない学生党員の間で、支持を集めた。そして、一九五八年五月の全学連大会では、執行部を独占してしまう。党中央の言うことをきかなくなったので、みんな除名されてしまった。
 それならと、その年の十二月に彼らの作ったのが、「共産主義者同盟」(略して共産同)である。その昔、マルクスがこしらえた革命組織の名前にあやかったものだ。同盟のことを、ドイツ語で「ブント」というので、安保ブントともいう。最初は小さかったが、たちまち大きな全国組織にふくれあがった。大衆組織の全学連を、上部団体の共産同が指導するという関係である(「冒険としての社会科学」橋爪大三郎) <

 六全協というのは、1955(昭和30)年に開かれた日本共産党の第六回全国協議会のことで、軍事路線から平和革命路線を打ち出したものであるが、それでは飽き足らず、より過激な活動をしたいという学生がたくさんいた、ということである。

 全学連主流派の組織に所属し、学生運動に参加した西部は、すぐに指導的ポジションに就くことになる。
 
4 アジテーター

 西部は扇動的な演説が上手く、

 全学連の書記長をやっていたS氏は私を東京都学連の副委員長にした。もちろん、本人の承諾なしにである(「寓喩としての人生」)

 S氏とは、その後中核派の議長になる清水丈夫(東京大学経済学部)である。

 つづいて東大教養学部の自治会委員長・副委員長の選挙が始まった。活動家の勢力でいえば共産党が七割、第四インターが二割そして我らのブントが一割といって過言ではないような、情けない状態になっていた。しかも立候補者は自分のクラスで自治委員に選出されなければならないのだが、我らの立候補予定者は、一番手も二番手も三番手も、その資格を得ることができない(「寓喩としての人生」)

 共産党が圧倒的に優勢な情勢下、第一候補の加藤尚武や第二候補の河宮信郎は、クラスの自治委員になることができなかった。西部のクラスには共産党系の学生がおらず、「共産党と喧嘩をやらしてくれ」とのスピーチをして、自治委員に選出される。そこで、西部が、自治会委員長に立候補し、選挙では全学連書記局の仲間らと共謀して投票用紙を偽造し、学校の裏手の旅館に持ちこみすりかえる不正をして、委員長になった。こうして、西部は、東大入学の一年半後には、東大の自治会委員長、都学連副委員長、全学連中央執行委員を兼ねる状態になる。

 私が贋の委員長であることを、証拠はないものの確信していた共産党は、当たり前のことだが、大いに怒っていた(「寓喩としての人生」)

 15名の常任委員はすべて共産党系であり、委員長は自治会室にも入れない状態であったという。

 そういえば、「委員長は我らの自治会費で暮らしている」というビラが撒かれたこともあった。代議員大会で、無党派の学生が「それは本当か」と詰問するので、私は「本当です。でも、さほどのものは食べておりません」と答えて、場内を笑わせるのに成功した。この種のちょっとした言葉の綱渡りに私は少しばかり秀でていたのかもしれない(「寓喩としての人生」)

 この機転のエピソードと、不正選挙による偽りの委員長の話は、西部の著作に頻繁に登場するものである。

5 2度の逮捕

 1960(昭和35)年1月16日、日米安全保障条約の改定に調印に向かう岸信介首相の渡米を阻止するため、羽田空港に1000人近くが座り込み、全学連委員長の唐牛健太郎をはじめ、大量の逮捕者が出た。
 西部も、その一人である。
 神田警察署に3週間留置され、起訴されて東京拘置所の独房に入る。

 起訴されて拘置所まできたときは、入口で四つん這いにさせられ、検査用の棒を尻の穴に突っ込まれた。共同浴場などから病気が伝染するのを防ぐためというのが名目であろうが、犯罪者に屈辱感を味わわせるのがその真の狙いであろうこともすぐわかった。(「寓喩としての人生」)

この件では、一ヶ月留置され、二月末ころに保釈されている。

 全学連は、4月26日、唐牛らが国会前で装甲車を乗り越えて機動隊に突入する事件を起こすが、これには西部は参加していない。駒場の党派抗争に支障がでるので(自治会)委員長の任期いっぱいまで捕まらないようにしろ、ということになり、池袋の映画館で、女子大生とフランソワ・トリュフォー監督の「大人は判ってくれない」を観ていた、とのことである。

その後、西部は、6月3日の首相官邸への突入事件、6月15日の国会乱入事件を一部指揮し、7月に再び逮捕される。6月15日の事件は、東大生の樺美智子さんが、国会の南通用門で圧死したことで有名な事件である。西部の長女は、授業中に、教師から「この中に樺美智子さんを殺した奴の子供がいる」、と言われたことがあるという。

6 左翼からの離脱

 逮捕された西部は、再び、巣鴨の東京拘置所に送られる。

 私が政治犯として東京巣鴨の拘置所に半年ばかりいたとき、父が面会にやってきた(中略)、青い囚人服の自分の姿を父にみられるのが嫌で、「こんな所にくるものじゃないよ」とか「東京は暑くて大変でしょう」とかいって、その場の気まずさをごまかしていた(「サンチョキホーテの旅」)

 この時は、7月初旬から11月末まで約5か月間収監されて、保釈される。

 我が家にも立ち寄ったが、父親は「お前には敷居をまたがせない」といった。
 仕方なく深夜に石山通りという名の産業道路を歩きながら、高校時代の級友のところにでも泊めてもらおうと算段していたら、後ろから母親が転びつまろぴつ駆け寄ってきて、私にしがみつく。まるで新国劇だなあなどと思いつつも、母の愛情を体感した。後年、自分が親になってから、親の気持にも冷たい部分があると知った。で、「あのときの母親の本心は、この子さえいなければ、ということだったのかもしれない」と想像し、当時の自分の若さに苦笑いしたものである。(「寓喩としての人生」)

 保釈時にはブントは勢いを失い、組織は崩壊寸前であった。
 
 西部は、22歳の誕生日である1961(昭和36年)3月15日、南青山で開かれた、ブントの会議に出席する。
 清水丈夫らが、革共同(後に分派して中核派や革マル派を生み出す組織)への合流を切りだすが、西部は即座に「まっぴらごめん」(「私の履歴書人生越境ゲーム」日本経済新聞社・青木昌彦)と断り、左翼運動から撤退した。

 以後、西部は、1960(昭和35)年1月16日の羽田空港事件、同年6月3日の首相官邸突入事件、同年6月15日の国会乱入事件で起訴され、3つの刑事裁判の被告人として20代を過ごすことになる。

 → 続く