マインドフルネスから仏教瞑想へ⑤

マインドフルネスから仏教瞑想へ⑤

現在への集中

 マインドフルネスやヴィパッサナー瞑想は、呼吸への集中、そして現在への集中を説きます。

 スマナサーラ師は、現在への集中について、

  実在しない過去、実在しない将来についてあれこれしようとすることは、無駄な努力です。それが、どうしてもそうなってしまうことが問題です。現在に生きていないということが、人類の大問題です。瞑想のものすごく大事なポイントは、現在に生きることです。瞑想とは、「いま現在に生きること」とさえ言い換えることができます。いまやっていることに面白さ、楽しみを感じるのがポイントです。(「現代人のための瞑想法」、アルポムッレ・スマナサーラ、サンガ新書)

とまで言います。

 呼吸への集中は多数経典があることを説明しましたが、現在へ集中するという考えも、古くからの仏典に従っています。


 「過去を振り返るな、未来を追い求めるな」「過去となったものはすでに捨て去られたもの、一方、未来にあるものはいまだ到達しないもの。そこで、いまあるものをそれぞれについて観察し、左右されず、動揺せずに、それを認知して。増大させよ。」(「原始仏典第七巻 中部経典Ⅳ」吉祥なる一夜、中村元監、春秋社)

 過去も未来も存在しない、自分の頭の中の妄想です。
 妄想は排除して、目の前の現在のみに集中して観察しつつ、それに左右されず、客観的に観ていく。この古くからの仏教のやり方が、現在に受け継がれている、ということになります。

 現在の呼吸や身体の動きに集中していると、いつも自分が抱えている不安や問題についての雑念がわいてきたときに、それが過去や未来に属するもので、目の前に実在するものではない妄想であることに気がつきます。このように気が付くと、その後は、無駄な思考が整理され、今やるべきことに集中できるようになります。

只今の一念より外はこれなく候

 「武士道とは死ぬことと見つけたり」で有名な「葉隠」は、武士の勤めの心得やエピソードが列記された江戸時代の古典です。
 著者(口述者)の山本常朝は、若いころから仏道を学び、隠居後は出家もしているので、武士道のみならず、仏教への心得も深いものがあります。このため、「葉隠」は、武士の心得を語りながらも、あちらこちらに仏教的な要素がちりばめられています。

 そこには、
 
  端的只今の一念より外はこれなく候。一念々々と重ねて一生なり。ここに覺えつき候へば、外に忙しき事もなく、求むることもなし。ここの一念を守って暮すまでなり。皆人、ここを取り失ひ、別にある様にぱかり存じて探促いたし、ここを見つけ候人なきものなり。(「葉隠 上」和辻哲郎、古川哲史校訂、岩波書店)

 であるとか、

  当念を守りて、氣ぬかさず、勤めて行くより外に、何も入らず、一念々々と過ぐす迄なり。(同書)

などの記述があります。

 この部分は、武士としての勤めの秘訣を述べたものですが、おそらく、現在への集中を説いた仏教思想の影響であり、禅などの仏教瞑想により常朝が体得したものでしょう。現代人がマインドフルネス瞑想の効果をビジネスに生かそうとしていますが、江戸時代の武士も仏教瞑想で得た知見を奉公に生かしていたのです。

マインドフルネスから仏教瞑想へ④

マインドフルネスから仏教瞑想へ④

歩く瞑想

 歩く瞑想の場合なども、実況中継のように念ずることは、同じです。

 今度は、ミャンマーの上座部仏教の高僧マハーシ長老の書籍から引用します。

 歩く瞑想は、


 歩くたびに、
 「歩いている、歩いている」
 あるいは
 「右足が歩いている、右足が歩いている」
 または、
 「左足が歩いている、左足が歩いている」
 と念じてください。
  足を踏み上げて踏み出すまで、最初から最後までの歩みを自覚しておかなければなりません。
 (「ミャンマーの瞑想 ヴィパッサナー観法」、マハーシ長老著、国際語学社)

という要領で念じながら行います。
 
 食事のときなども、


 口に触れたら、
 「触れている、触れている」
 と念じ、口を開けたら、
 「開けている、開けている」
 と念じてください、
 口に入れる時には、
 「入れている、入れている」
 と念じてください。(同書)

というような要領で、観法を続けます。
 

ヴィパッサナー瞑想のポイント

 ヴィパッサナーのポイントは、


一、良いことにせよ悪いことにせよ、考えること、思い出すこと、想像することなどの心の状態を念じること(心)
二、大小問わず、体による行為をするために念じること(身)
三、快感でも不快感でも、体または心に感じるすべてのことを念じること(受)
四、良いことにせよ悪いことにせよ、心の中に現れてきたあらゆる対象(物事)を念じること(法)
 このような特別に念ずべき物事が生じてこない時は、膨らみや引っ込みや座りなど、もとの対象に戻り、念を繰り返して下さい。
 ただし、歩いている時は、
 「足を持ち上げる、運ぶ、踏み出す」
 その三つだけを念じ続けて下さい。(同書)

とのことです。 

経典上の根拠

 古い経典にもこのような瞑想は書かれています。

 例えば、

 修行僧は歩いていけば「わたしは歩いている」と知り、また、立っていれば「わたしは立っている」と知るのである。また、坐っていれば「私は坐っている」と知り、臥せていれば「わたしは臥せている」と知るのである。また、いかなる状態であれ、かれの身体がおかれている状態のとおりに、それを知るのである。(「原始仏典第二巻 長部経典Ⅱ」心の専注の確立 ―大念処経、中村元監修、春秋社)

 とあり、食事や大小便のときも気をつけて行うようにとされています。